高地(こうち)集落

 高地住民が昭和10年に道普請グループをつくってから30年、県が道路改修を始めてから17年を経過して、ようやく長年の悲願が達成された。当日高地の人たちはアーチを立て、住民総出でバスを出迎え、試乗もして、高地分校で盛大に開通祝賀会を行った。
 高地へ乗合定期バスが通るようになるまでの事情を、羽田織衛氏は「高地分校沿革誌」に次のように記述している。

 「自動車でなければならない時代になり、道路を広くする為に砂利を入れを行い、また粘土質であるため岩石を破砕して石を敷き、幾百人の人夫を使って漸く自動車を曲尾地籍まで導入した。なお大町へ開通までは若栗峰という大難所があり、県としても経費の点でも年月工事期間の点でも困難をきたしたので、地元としても資金に迫られて、公有地の杉木立を売払い、2百万円以上もかけて漸く昭和38年9月30日に開通の運びとなった。ついでに乗合自動車運行の運動をお越したが、道路補修等も困難をきわめた。待機所の設定については公安委員会の指示が厳しかったが、それも成し遂げ陸運局の許可も得た。川中島自動車会社の理解と協力により、昭和39年12月開通式を行う事となり、いよいよ高地も恵まれたと思ったが竹ノ川、女生山を初め一人、二人と大町方面へ転住し、年々歳々人口が減り、過疎地帯となって離村し、戸数は今ではまさに残り少なくなり、今まで開発に努力してきた事を思うと実に残念悲愴のきわみである。」

それからわずかの年月で、挙家離村がさらに進んで、遂に乗合バスの運行も中止となった。昭和59年最後の一戸が大町へ転出して無住地域となった。
出典:美麻村村史p548

高地村
昭和39年に乗合バスを導入したが、過疎化をくい止めることができず、昭和44年高地分校が閉校した。
昭和58年、高地の住人はほとんど転出してしまった。
補足
昭和56年豪雪、3日間で2m
昭和58年7月27日集中豪雨、山崩れ、道路破壊など

タバコ岩付近空撮 タバコ岩西広場からの北アルプス


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※玉泉寺~大安寺の地図

※湯の海~中尾口の地図